usa report

第11話 現地ネーム


 何度言われても発音出来ない単語があると、自分の語学力を棚に上げて、日本人は語学の苦手な民族ではないか。と思ったりもする。しかしよく観察してみるとそんなこともない。アメリカ人も外国語が苦手という点では、決して日本人に負けていない気がする。
 先日偶然、新聞にそのような記事が掲載されていて、英語で世界中どこへいっても苦労しないとアメリカ人は、つい最近まで一生懸命、外国語を勉強しなかった。その結果、いろんな弊害が発生しており、一部では社会問題にまで発展しているらしい。そこでこれではマズイと言うことで、メンフィスの高校でも数年前から外国語を教え始めたようだし、昨年からは大学でも外国語の選択が必須科目になったらしい。同様に最近では社会人を対象にした語学学校も盛んになってきている。そして学習科目もドイツ語やフランス語中心から、ロシア語、中国語や日本語に人気が移っているらしく、これらはビジネス面から考えれば当然かもしれない。
 話は変わるが、アメリカで働く日本人は現地ネームを持つことが多い。これは何もアメリカだけに限ったことではないが、私の印象では、特にアメリカ人は日本語の発音が苦手な気がする。日本へ来た外国人に日本語の名前をつけて呼ぶことを想像し、比較してみると面白い。
 ここでは我々外国人は、彼らに分かりやすい現地ネームを決めて円滑なコミニケーションを図ろうとするのだが、こうなると一種の生活の知恵と言えなくもない。現地ネームは自分の名前の頭文字を取ってつけるのが一般的だが、これがなかなか面白い。というのも元来自分の名前というのは、当然本人が知らない間に親が勝手に決めたもので本人に選択の余地はない。しかし現地ネームは頭文字をヒントに、本人が気に入った名前を自分で考え決めることが出来る。例えば杉山正和氏は、名前の正和のMを取ってマーク・スギヤマというように。ミッキー、ジョン、スティーブ、サム等、ほとんどが最もポピュラーなアメリカンネームを使っている。私も赴任当時、20以上の現地ネームを職場の仲間が考えてくれていて、中にはRAMBOなんていうのもあったが、以前中米にいた時、RYUで問題なかったので、今回も「RYU」で通すことにした。しかし、アメリカ人にRYUという発音は以外と難しいようで、慣れるまで呼ぶ方も呼ばれる方も苦労している。なかなか発音出来ない友人にRYU=DRAGONといったらそれ以来「DRAGON」と呼ばれるようになった。まあ、それもいいか・・・

第12話 発音


 職場のアメリカ人は日本人の英語、発音に慣れていて、ブロークンで少々酷い発音でも理解してくれる。だからといって英語が上達したと思ったら大間違い。今でもよく憶えているのがアメリカに来て2ヶ月ぐらい経ったある日、ハードウエアのお店に木を買いにいった時の出来事。広いのでお店の人に木を売っているエリアを聞いてみたが、ウッドが通じない。口をとんがらせたりしてウッドをトライしてみるが、ウッドが理解してもらえない。諦めて自分で探そうとすると、相手が「スペルは?」と聞くので、「W-O-O-D」というと「Oh,WOOD!」で決着。こんな簡単な単語が伝わらないのはかなりショックだ。
 問題といえば既に日本語になっている英語にも困りもんだ。こっちは英語だと思って繰り返すが通じない。ビタミンやアルコールなんかは良い例だし、本場のマクドナルドでコカコーラを頼もうとしても。日本語英語のままでは、まずマクドナルドがどこにあるか聞けないし、コーラも飲めない。McDONALDの発音をカタカナで書けば、マックダナル (ドは殆ど発音しない)になるし、コーラはコーク、おまけに窓口の女の子は早口でまくしたてるから、慣れないとハンバーガー一つ思い通りに頼めない。
 訪問した会社の受付嬢に「VIPルールはどこか?」と聞いたつもりが、「BIP」と聞こえたらしく分かってもらえないことがあったし、発音での苦労話はそれこそ枚挙にいとまがない。また日本人はVIPをビップと呼んだりするが、このやり方もアメリカでは通じない。アメリカで自分の英語力を客観的に判断するには、日本人の英語に慣れていない人、外国人と話したことがない人と話せばいいと思う。しかしあまり通じず落ち込むこともあるので、その時は日本人の英語に慣れたアメリカ人と話をして、少し自信を取り戻すことも必要だろう。
 それに何と言っても一番難しいのが日常会話だと思う。未だに簡単なことがうまく表現出来ない。業務やプロジェクトの話は共通点もあり、やることもある程度は分かっているから、お互い言いたいことの予想もつきやすい。また重要な事柄は、辞書等で確かめ合うことも出来るが、朝会社に来るなり、全く前後の脈絡のない家庭の話なんかを早口でまくしたてたら、思わず「悪いけど何の話?」ということになってしまう。
 当たり前だけど、英語もアメリカにいるだけでは上達しない。やはり勉強しないと・・・。

第13話 アルコール


 アメリカに来て口髭を伸ばし始めたのには理由がある。
 こっちへ来た当初、スーパーのレジで可愛い女の子に歳を聞かれたことがあった。彼女の話す英語はよく理解出来たのだが、質問の意味、なぜ私の歳を聞くのか分からず、思わず自分に都合のいい解釈をしかけていたら、「21歳になっているの?ID(身分証明書)を見せて」といわれ、我に返った。買い物カゴの中には、食料品と一緒にビールが1ダース入っている。「君は勘違いをしているよ」と私は呆れ顔で彼女を見つめたが、彼女は私がIDを出すまで諦めない様子。
 こんなところで睨めっこをしていても仕方ないので、渋々ID見せると今度は彼女が驚く番。私がすぐに出さなかった理由が分かったようで「ごめんなさい。東洋人の歳は分からない」と小声でつぶやきながら、ようやくレジを打ち始めた。実際の年齢より若く見られて喜べるのも、せいぜい5〜6歳ぐらいまでで当時私の実年齢は35歳。今更21歳になっているかと聞かれて嬉しいはずがない。但し女性は別かもしれないが・・・。それも一度だけなら彼女に見る目がなかったんだと諦めもつくが、その後もバーへ飲みに行くたびに入り口で歳を聞かれると、アメリカ人から見てそんなに若く見られるのはマイナスではないかと思い始めた。なによりお酒を買ったり飲むのに逐一IDを見せるは勘弁して欲しい。
 確かにアメリカでは未成年にアルコールを売ったり、提供したりすることが発覚すると知らなかったでは済まされず、高額の罰金や営業停止等かなり厳しい罰則がある。だから彼らは少しでも疑わしき者には尋ね、確認する権利というか義務があるようだ。
 また最近この件で面白い話を聞いた。というのはレジを打つ人も21歳以上でないとアルコールの値段のレジのキーを打てないらしく、その時はマネージャーに頼んだり場合によっては買う客に頼んだりするらしい。そこまで徹底しているとは知らなかった。日本にはアルコールの自動販売機があり、いつでも誰でも買うことが出来るというと大抵のアメリカ人は驚く。確かに日本にいた時、私も良く利用していて便利に思ったことがあったが、アルコールに関してこれだけ厳しいアメリカには、街中にアルコールの自動販売機などあるはずもなく果たしてどちらが良いのか考えさせられる。日本の場合、大人の便利ばかりを優先させている気がする。もちろん販売する権利もあるが、誰でも買えるのは少し視点を変えれば疑問も多いし、自由の意味についてもよく考えないといけない。海外で生活すると日本では信じて疑わなかった常識や当たり前のことが、全く違う視点や価値観によって簡単に覆されることがよくある。
 口髭を伸ばすようになってから、お酒を飲むのにIDを見せることもなくなった。

第14話 車と道路


 メンフィスの街を車で走って感じたことを少しまとめてみた。
 まずとても便利に感じたのは、信号が赤でも自由に右折出来ること。もちろん日本と違って右側通行なので、日本の感覚的ではいつでも左折出来る感じ。そして広い道路の真ん中には1レーン双方から入れるゾーンがあり、左折する時はそこに入って待つことが出来る。従って左折車の後ろを走っていても、前の車が曲がるのを待つことも、進路を変える必要もない。車の流れが分断されず、便利で合理的な方法だと思うが、道路が広く車の数も日本とは比較にならないメンフィスだから出来ることかもしれない。
 スピードはマイル表示で、1.6倍するとキロになる、ただ実際に走っていると道路が広いせいか、マイル=キロぐらいにしか感じない。街中はだいたい45マイル(72キロ)が制限速度で、高速でも65マイル(104キロ)が最高。それ以上スピードを出せる道路はアメリカにはなく意外に厳しい。日本のようなネズミ捕りはないが、無視するとレーダーを備えたパトカーに追いかけられる。捕まえ方は日本と殆ど同じで、陰で待ち伏せたりしていて結構意地悪。
 ドライバーの運転マナーや技術は決して良いとはいえない。というのも16歳から免許が取れる上、試験は簡単。日本人には試験問題が英語なので意味の理解に悩むこともあるが、といっても辞書の持ち込みが可能でアメリカ人なら難しいはずはない。その上、路上試験は自分で持ち込んだ車(殆どオートマ)でワンブロックぐるっと一周回るだけ。車庫入れもバックの試験もない。
 毎日私の前後を走っているドライバーがあの試験の合格者だと思うと正直不安を覚えることもある。確かに交通量に比べ事故が多いし、来た当初は進路変更時にウインカーを出さず急に曲がる車に戸惑ったが、最近これは単にウインカーを出し忘れたのではなく、ウインカーを出す習慣のないドライバーが多いだけのことだと気づいた。しかし彼らはウインカーを出したまま曲がらない、要するに出したまま交差点を直進してくる車よりましである。これは危ないし始末が悪い。
 運転マナー同様、車検が簡単なため整備不良の車も多い。信号待ちの後、急に動かなくなり立ち往生している車をよく見かけるが、すぐに周りの人達が協力し合い車の移動を手伝うのを見て、最初の頃アメリカ人は親切だと感心した。しかし最近では単にトラブル慣れしているだけだと思うようになった。きっと自分が一度経験すると今度は助けてあげようという気持ちになるのだろう。
 メンフィスに来たと当初、日本と違い急に進路を変えたり横道から入ろうとした時、すぐに道を譲ってくれるのに感激したことがあった。またクラクションの音もあまり聴いたことがなかったので、アメリカ人は日本人より優しいと思ったりもしたが、NYマンハッタンではクラクションが鳴り響き、道もなかなか譲ってくれないから、これはアメリカ人気質というより「メンフィスが単に田舎である証かもしれない」と思う今日この頃である。

第15話 ハンカチ


 アメリカへ来てハンカチを持ち歩く習慣がなくなった。というのもハンカチの最大の用途である手を洗った後に使う必要がなくなったのである。こちらのトイレ、洗面所には必ずといっていいほど、ペーパータオルが備えてある。中にはハンドドライヤーが設置されているところもあるが、とにかくハンカチは使わなくていい。とても楽だし便利だけれどペーパータオルの場合、再生紙とはいえ、毎日膨大な量の紙を消費してわけだから、資源の問題が国際レベルで話し合われている昨今、単純に喜べない面がある。しかしアメリカでそんなことを気にするのは我々日本人ぐらいかもしれないし、当初はそれが無駄とはいわないまでも、ちょっと贅沢だと感じていた。同時にアメリカはやはり資源の豊かな国なんだと。
 そういえばアパートのテニスコートのナイター設備も、暗くなると自動でスイッチが入り、誰もいなくても朝まで点いている。「もったいないなあ」と思っていたが、数ヶ月経つとそれが気にならなくなってしまうから、やっぱり慣れとは恐ろしい。
 話を元に戻すと、それではアメリカ人は誰もハンカチを持っていないのか。といえばそんなこともない。「では何のために?」 答えは鼻をかむため。もちろん他の使い道もあるんだろうけど、主目的は間違いなくこれです。
 単なる習慣の違いといえばそれまでだが、日本人の感覚からするとハンカチで鼻をかむのは抵抗がある。先日ハンカチで鼻をかむ日本人駐在員をみたが、何年アメリカに住んでも多分私には無理だろう。

第16話 人生とは


 もう10年も前になるが、以前滞在していた中米ではいろんな人にお世話になった。母国を離れて生活していると、現地の人の親切が身にしみて有り難く感じることがよくある。しかし滞在中はいくら招待を受けたり、世話になっても、彼らを何もない私の狭いアパートへ招待してもてなすことは出来ない。「いつか日本で」といっても簡単の来られるわけではないので、滞在中は「GIVE & TAKE」にならず、「TAKE」ばかりが増える。もちろん彼らにしても「TAKE」を期待しても「GIVE」ではないだろうが、結局気にはなりつつ、そのまま帰国の日を迎えることになる。
 帰国後日本で新しい生活が始まると、残念ながら彼らへの感謝の気持ちも徐々に薄れていくが、そんなある日、開発途上国から日本へ研修や実習に来ている人たちと出会う機会があった。その中には偶然にも以前私が滞在していた国からの研修生もいて、ローカルな話題に思わず話が弾んだ。そして何度か話し相手になるうちに親しくなった。過去の自分の記憶が甦り、母国を離れ文化も習慣も全く違う日本で生活している彼らの悩みや抱えている問題が過去の自分と重なった。
 そこで少しでも日本でいい思い出が出来ればと、家に招いたり食事をご馳走している間に、世の中うまく出来ていると感じ始めた。「持ちつ持たれつ」とはよくいったもので、なにも直接お世話になった相手でなくても、みんながそんなふうに回していけば、結果としてGIVE & TAKEになっている。
 もちろん直接お世話になった人のご恩を忘れるわけではないが、GIVE & TAKEも回り回って地球レベルで考えれば同じことだと思うと何か嬉しくなった。
 今アメリカに住んで、再び周囲の親切にありがたさを感じている。

第17話 デリバリー


 何かを頼んで相手に予定通り、実行してもらうのが思いのほか難しい。最初は言葉の問題もあって、ちゃんと伝わっていないのかとも思ったが、どうもそれだけではないようだ。例えば、家具等自分で持ち帰れないような品物を購入した場合、当然配達をお願いするのだが、なかなか予定通りの日に来てくれない。変更するなら電話等で事前に知らせてくれてもよさそうだが、こっちから問い合わせて初めて変更を伝えられる。その際に謝られたことはないし、悪びれた様子も全く感じられない。通常配達日には、私は家で待機しているわけだから、こちらは配達されないと腹も立つが、アメリカ人は配達日が土壇場で変更になったぐらいでは怒らないのだろうか。日本的には連絡なしの配達日の変更などあり得ないと思うのだが・・・。
 ダイニングテーブルのセットを買った時も椅子の在庫がないといわれ、予定通り配達されたのはテーブルのみ。いつになるか聞いても担当者では要領を得ないのでマネージャーに電話で「来週日本からゲストが来るが、彼らに立ったまま食事をさせろというのか?」と言ったら2日後に配達してくれた。
 それからは配達日を決める際、その日までに配達されないと困る理由を言い添えると案外ちゃんと配達してくれることがわかった。
 最近会社のショールームのカウチを大手の百貨店に頼んでいたのだが、予想通りというか、配達日に持って来ない。事前に何度もチェックしたのに、当日再確認すると、まだアトランタの倉庫にあり、配達には4、5日かかるという。ショールームは2日後に完成予定で幹部の視察も予定されている。カウチがないとショールームとして格好がつかないし、完成したことにもならない。
 同僚のアメリカ人は我々のやるべきことは全てやった。もうお手上げだという顔をしている。私は以前の教訓を生かせていないことを悔やみながらも最後の賭けを試みた。百貨店のマネージャーに電話で「あさっての午後、ショールーム・オープニングの式典があり、新製品の記者発表がある。その席に御社のカウチがないと困るが、そっちも困るのでは?」実際に記者を呼ぶ話もあったので、まんざら嘘とは言い切れない。
 記者発表の話が効いたのか、地元の大手百貨店としてのプライドか、その晩トラックを走らせて、翌日の午後会社にカウチを届けてくれた。ちなみにアトランタとメンフィスはトラックだと約10時間はかかる距離である。
 何もいわなくとも、ちゃんと約束した日の届けてくれる日本はいい国だ。

第18話 ナショナリズム


 よく日本人は同質社会を好み異質なモノとの共存が苦手な民族だと言われるが、アメリカに住んで国外から日本を見ると何となく納得がいく。
 一方のアメリカは、いろんな民族や人種の寄り合い所帯だから、共存が苦手などとはいっておられず異なった者同士の共存がマストな社会だといえる。
 日常生活はもちろん、仕事上でも様々な異なった考えをお互いに尊重し合う風潮が感じられる。そんな環境からか、日本のように誰もが同じ物を持ちたがる流行も少なく、国土は広いこともあり、国民全体が同じ方向に進むことはあまりない。そこがよく言われる協調性を大切にする日本人と、個人の自主性を重んじるアメリカ人との違いでもあるわけだ。
 そんなアメリカ人が思わぬ結束を見せて、驚かされた出来事がある。パナマのノリエガ将軍逮捕のため、アメリカ大統領がパナマ侵攻を決定した時のことである。この決定に対するアメリカ国内、マスコミの論調は、大統領の英断として讃えるものばかりで、信じられない思いがした。私はアメリカのニュースと日本の新聞を見比べ、あまりの報道の違いに驚きながらも、これが当事者と第三者の違いかもしれないと思いながら、ことの成り行きを見守った。
 この時ばかりは国際世論も総じてアメリカの決定に批判的だったし、私自身もこの決定をあまり好ましく思っていなかったので、親しいアメリカ人に「アメリカは間違っているのではないか?」と議論を持ちかけたりした。しかし彼らはノリエガがいかに悪党であるかを繰り返し説明するだけで、一方的に他国に侵攻した事実、アメリカの是非には明快な回答が得られず、結局話は平行線のまま終わった。確かに彼らはアメリカ国内で報道されている以外の情報に触れる機会は少ないかもしれない。しかしこの事件を通して、アメリカ人は普段それぞれが好き勝手なことを言っているが、戦争等いざという時には決定された内容の是非に関わらず、全員が同じ方向に向かって結束する強い国民性、ナショナリズムを感じずにはおれなかった。

第19話 豊かさとは


 豊かさとは何だろう。周囲のアメリカ人の生活を見ていると、新聞等で報道されている貿易赤字や財政赤字に悩むアメリカの姿はない。もちろん国の収支が直接的に国民生活に結びつかないことは、貿易黒字国の日本人の生活がアメリカ人と比較して、豊かと言いがたいことでも納得出来るが、特に大きな差を感じるのがお年寄りで、私も老後はアメリカで生活したいと思うほど、彼らは余生をエンジョイしている。
 確かに物質的な面に限れば、最近の日本の若者は一見リッチかもしれない。高級オーディオを所有し、スポーツカーを乗り回している若者を数は日本の方が多いだろう。しかし私のいう豊かさとは、そんな表面的なものではなく、一般のアメリカ人の生活を見て感じる余裕や底力みたいなものだ。
 例えば日本で四畳半のアパート住まいでBMWに乗るような、一点豪華主義的な生き方はアメリカでは少ないと思う。価値観の違いと言えばそれまでだが、アメリカでは各自が全ての面でバランスの取れた生活を基本としている気がする。例えば住んでいる住宅の大きさと車庫に入っている車のグレードが一致している。またポルシェやBMWに乗っているのが、若者ではなく、中年のおじさんや初老の紳士が多いのもうなずける。
 一方日本では、大きな家の車庫に軽自動車、車庫もないアパート前の路上に高級車とアンバランス。また日本人より他人の目を気にしないから、気負いや見栄がなく、何事にもマイペースに見えるのも彼らの余裕と感じられる。またテニスやゴルフをするのに、何ヶ月も前から予約しないと出来ない日本は豊かとはいえないし、休日に行楽地に出掛けて帰りに何キロもの渋滞に巻き込まれるのは豊かとはいえないだろう。土地付きの家が買えないから高級車で代用するのも何か変だ。やっぱり日本は全然豊かじゃない。
 もちろん日本にない恵まれた生活環境がアメリカ人の余裕の背景とも感じられるが、同時に彼らは生活していく上で必要な基本的な部分を大切にしており、以外とシンプルライフだ。物が生活の中心になっていない点で好感が持てるし、我々が見習うべき点も多い。

第20話 自由と責任


 アメリカと日本の生活を比較した場合、当然文化や習慣、ライフスタイルも違うから、どっちがいいとは一概に言えないが、お互いに見習うべき点はある。
 しかし絶対アメリカの方がいいと感じるのは、いろんな事をやる自由と責任が本人に委ねられているところである。
 首都ワシントンにあるナショナル・ギャラリー・オブ・アートへ行ったとき、まず入場料が無料なのに驚いた。中にはドガ、モネやゴーギャンなど美術の教科書でしかお目にかかったことない世界中の名画が、それこそ手を伸ばせば届く位置にずらりと並んでいる。あまりに有名な絵画ばかりなので、一瞬私は「本物かな?」と目を疑ったほど。そしてもっと驚いたのは、それらの絵の前で、美術専攻と思われる学生達が熱心に模写していたことだ。もちろん写真撮影も自由で、日本では考えられない恵まれた環境である。
 狭い土地や大勢の人間が快適に過ごそうと思えばルールが必要だし、人が増えれば増えるほど、ルールを厳しくしないとうまく機能しなくなるのは仕方ないことだと思う。しかし個人の判断する余地がなくなり、ルールが全ての行動を規制するようになれば、それは人間にとって不幸な出来事だといえるだろう。
 コロラド州にあるイエローストーンと呼ばれる有名な観光地では、道の途中で「ここから先はあなたの責任で入ってください」と書かれた立て札がある。私はこのコピーが気に入っている。なぜならその先、問題が起これば自分の責任となるが、同時に自分の意思で前に進む自由もあるからだ。確かにその先には急な勾配や崖があったりして、お年寄りや幼い子供には危険かもしれない。でもそんなところを通り抜けて初めて感動する風景に出会えるのではないだろうか。それでこそ、わざわざ遠いところから見にきた価値があるというものだ。日本では何か問題が起こるとすぐに政府や自治体の管理責任が問われるから、勢い過剰防衛になりがちだが、アメリカ的発想から見れば少し規制し過ぎと感じるのは私だけだろうか・・・

<< TOP >>